汐見要は、春という季節が嫌いだ。

この時期は、色々なことが慌ただしく変わるから面倒臭い。
そこはかとなく漂う、どこか浮ついている雰囲気もうっとうしい。 


と、理由は色々あるが、その最もたる理由は、あの花……桜のせいだ。

花言葉



要は桜の花が大嫌いだ。

それなのに、春になると周囲は桜の花で溢れかえる。
日本人は皆、桜が好きだからと言うのだ。

誰だ、そんなことを言い出した奴は。自分が好きだからって勝手に決めつけるな。
あの花が大嫌いな日本人だっているんだぞ。

そんな悪態を吐いてしまうほどに嫌いだ。

では、桜の何がそこまで嫌いなのか。
そう言われると……」言葉に窮する。

何がどう、と言われても困る。
ただ、あの花は見るだけで無性にイライラする。いつから、何が原因かは覚えていないがとにかく……勘に障る。 疎ましい。

なぜこんなふうに思うのか、疑問に思わないこともなかったが、特に気にしなかった。

理屈抜きで嫌いなんて、よくあることだ。


そう……帰省先の祖母の家の庭に生えている桜に目を遣り、とりとめもなく思った時だ。

「『また』、その桜見てるの?」
ふと、投げかけられたその言葉。


「要ちゃんは本当に、あの桜が好きね」

桜から目を向けると、祖母が静かに笑いながらジュースを差し出してきた。


要が「何のこと?」と訝しみながらジュースを受け取ると、祖母は「あら?」と小首を傾げつつ向かいの席に腰を下ろした。

「要ちゃん。あの桜が咲くの、毎年楽しみにしていたじゃない。咲いたら縁側に座っていつまでも一人で眺めてたり、桜の絵を描いたり」

「そう……そう、だったね」
まるで記憶になかったが、要はぎこちなく笑いながら、祖母に頷いてみせる。

要の頭の中には、この家で過ごした思い出があまり残っていない。

多分、意識的に消してしまったのだと思う。ここで過ごした日々は、学校で苛められた辛い記憶ばかりだから、覚えていたって苦しいだけだと。

でもそんなこと、要が苛められていたことさえ知らない祖母や父に言えるわけもないので、こうして適当に話を合わせている。

けれど……。

要は妙に動揺していた。
桜を見ただけで理由もなく嫌な気持ちになる自分が、桜が咲くのを楽しみにしていただなんて、どういうことなのか。

「懐かしいわね」
祖母が目を眇ながら、庭の桜に目を向けた。

「あなたのお母さんも、あの桜が好きだったわね。だから毎年、花が咲いたら皆でお花見して……楽しかったわね」

それは、うすぼんやりだが覚えがある。
この家の庭で、今は亡き母を交え、家族皆で何かを見上げる。その顔は皆笑顔で……多分、いい思い出なんじゃないかと思う。

「でも、お母さんが入院してからは、それもできなくなっちゃって。そしたら、あなたとお父さん、母さんのためにたくさんの桜を集めてきて」

それも、おぼろげだが覚えている。

病室から出られない母のために、父と手分けして一生懸命何かを探し回った気がする。でも、具体的に何を集めたかまでは覚えていない。

そう言うと、祖母は立ち上がり奥へと消えた。それから程なくして、アルバムやファイルを持って戻ってきた。

「病室にいてもお花見ができるようにってね。桜の写真を撮ったり、桜の絵を描いたり」

祖母の言葉を聞きながら、テーブルの上に置かれたファイルに手を伸ばす。
中には子どもが描いたとおぼしき拙い桜の絵が、たくさん挟んであった。

間違いなく、これは自分が描いた絵だ。しかし、描いた記憶がまるでない。
どうしてだろう。こんな……何十枚も描いていて、しかも大好きだった母との思い出なのに、なぜ覚えていない? 

疑問に思う要に、祖母はこう言った。


「あと、桜の絵筆をよく磨いていたわね」


「……絵筆?」

なぜだろう。その単語に、ざわりと心がうねった。


「あら? あの絵筆のことも覚えていないの? あんなに大事にしてたのに」

「桜の、絵筆って……?」
聞き返す。なぜか、声が少し掠れていた。 

「柄の部分に桜の花の細工がしてある観賞用の筆よ。蔵に長いことしまわれていたんだけど、要ちゃんが見つけてきたの。『この柄、とても綺麗だからお母さんに見せてあげたい』って。それで、丁寧に汚れを落としていたんだけど……結局、お母さんには見せられなかったけど、それからもずっと大事に持ってて」

「……ふーん」
気のない返事を返しながら、要は気を紛らわせるようにアルバムを手に取りパラパラとめくった。

何だろう。胸のあたりがいやにムカムカする。
それは、桜を見る時以上の不快感で、どうしてこんなに嫌な感じがするのだろうと不思議に思った時だ。

「……っ」
アルバムに貼られたメモ書きのある言葉に、要の目は釘付けになった。


桜の花言葉。

「精神美」

「純潔」

「あなたに微笑む」

「わたしを忘れないで」


……あなたに微笑む。

……笑顔。

……わたしを忘れないで。


……忘れないで。  ……忘れないで。   ……忘れないで。


「あの絵筆……どこに行っちゃったのかしらね」
耳鳴りの向こう、祖母の声がぼんやりと聞こえた。

その時、一瞬だが……


――要……要……っ。

独りで蹲って泣きじゃくる、誰かが見えた気がした。 








 

「……要」

柔らかな声で呼びかけられ、要ははっと顔を上げた。


そこには、要がこの世で一番愛おしく想う男の、柔らかな笑みがあった。

「桜、綺麗だな」
要が頷いてみせると、相手……トキは嬉しそうに笑みを深めて、庭に咲く桜に目を向けた。

「なんか、懐かしいな。……覚えてるか? 二人でこうして桜を見たの」

「ああ」
今なら、しっかり覚えている。

昔、この桜をトキと一緒に見るのを、とても楽しみにしていた。

桜自体が好きだから。
桜を見せると、トキが嬉しそうに微笑うから。

他のことも、ちゃんと覚えている。

桜が好きな母のために、綺麗な桜を探して蔵の中に入り、柄に桜の細工が施された筆を見つけたこと。
汚れていたから、綺麗にして母に見せようと思っていたら、その前に母が死んでしまったこと。

悲しくて泣きどおしていたら、筆が人間の男の子に変化して、以来ずっと自分に寄り添ってくれたこと。


トキと名づけたその子が、誰よりも好きだったこと。


みんな覚えている。だから、トキのことを忘れている間、桜を見るのが苦痛だったことも、「わたしを忘れないで」という花言葉を見て激しく動揺したことも、今なら理解できる。

要にとって、桜はトキそのものだ。

筆だった時は、柄になされた桜の細工が溜息が出るほど綺麗で何度も見とれたし、トキが筆から人間に姿を変えてからも、滑らかで透き通った白い肌の感触は桜の花びらのようだとか、トキから仄かに香る澄んだ甘い香りは桜の匂いみたいだと、トキにぎゅっと抱き締めてもらうたびに思っていた。

だから、桜を見ると……記憶はなくとも、五感がトキを連想してしまい、胸が締め付けられた。

トキが恋しくて……。
神様の呪いとはいえ、トキのことを忘れてしまった自分が許せなくて……。


そして、あの花言葉――。


「……なあ」
桜を見上げるトキの白い横顔を見つめながら、要は口を開いた。

「桜の花言葉、知ってるか?」

「花言葉? ……ああ。そういや知らないな。一体どんな」

「『わたしを忘れないで』」
要がそう言った途端、トキが驚いたようにこちらを見た。 

「それ……」

「忘れないよ」
ぎこちなく声を漏らすトキに、要はきっぱりと告げる。

「もう、忘れたりしない」

トキの目が、頼りなさげに揺れた。
だが、それは一瞬のことですぐに……いつもの、底抜けに明るい笑顔を浮かべて笑い出した。


「馬鹿だなあ、要。忘れたのはお前のせいじゃないのに、そんな顔して」

何でもないことのように言う。そんなトキに、要は眉を寄せた。


自分にとって辛いことや、要に迷惑がかかることだと判断したものは、全て笑って誤魔化してしまう。
悲しいトキの癖。

そして、その笑顔を全部鵜呑みにして、トキの本当の心を見逃し続けた自分。


「別に、いいよ? 忘れても。そのたびに、何回だって口説くから……っ」

「絶対、忘れない」
おどけたように胸を張るトキの手を握り締め、再度言い切ってみせる。


トキの顔から笑顔が消える。

代わりに浮かび上がってきたのは、迷子になった子どものような、不安げな顔。
こういう場面で本音を言うことに慣れていないから、どうしていいか分からないようだ。

だから、要は握ったトキの手を引いて、自分の胸に閉じ込めた。

そのまま黙って、トキの背中をさすってやる。
大丈夫だから、本当のことを言ってごらんと。

トキは何も言わなかった。それでも、辛抱強く背中をさすり続けていると、


「……そうしてくれると、助かる」

よくよく耳を澄ませていなければ聞こえない、かすかな声で呟かれたその言葉。


顔を覗き込んでみる。形の良い眉はハの字に下がり、白い顔は真っ赤になっていた。
初めて見る顔だ。でも。

「俺、お前の笑った顔が一番好きだけど、その顔も好きだよ」

頬を軽くつねりながら言ってやる。すると突然、トキががばりと起き上がった。

そのまま立ち上がってどこかへ行こうとするので、いきなりどうしたのだと慌てて服の裾を掴むと、


「いや、お前が好きだって言うから、どんな顔か見てこようと思って」

真顔で、そんなことを言う。


要は一瞬きょとんとしたが、すぐ顔を顰めると、強引にトキを引き寄せた。


全く、この男はまるで分かっていない。

(俺は、お前が自然に浮かべた表情が好きだって意味で言ったのに!)

作った表情では意味ないではないか。
……でもまあ、すぐに分かれと言っても無理な話か。癖なんて、早々治るものではない。

(……少しずつだな)

慌てず、ゆっくり教えていこう。
自分がどれだけトキを必要としていて、トキの本当の気持ちを欲しがっているか。

それが伝われば、今度こそ……神様の呪いでだって引き裂けない、強い絆を結べるはずだ。


(もう絶対、離さないからな)


「そんなに必死にならなくても、どこへも行かないよ」と、トキに笑われるほど強く抱き締めて、要は視線を上げた。

トキと二人で見上げる今年の桜は、涙が出るほど……美しいと思えた。

 




一方、その頃。高天原では……。


「恵比寿。この後、『俺がどれだけお前を求めているか、お前の全身で感じてくれ!』ガバッ! 『要っ? そんな、いきなり……でも、要がそう言うなら、好きにして///』ご開帳! という展開になる可能性は……っ」

「ねーよ」




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