我が妻、我が妻、今いくつ。綺麗なべべを集めましょ

          我が妻、我が妻、今いくつ。寝床を花で飾りましょ


「……ねぇ、姉さま。それ、何のお唄?」

「これ? これはね、山神さまのお唄よ。山神さまは神嫁さまが大好きだからね。神嫁さまがお嫁に来るまでの間に、綺麗なべべ集めたり色々準備してるんだって」

「わあ! きれいなべべ、いいなぁ。でも……今日は雪が降ってるから、きれいなべべ集めに行けないね」

「そんなことないよ。山神さまは何でもできるんだから、こんな雪、関係ないよ」

「わあ、山神さまってすごいんだね!」


と、加賀美の里で小さな童たちが話していた頃――。


「は……はっくしょんっ!」
山奥で盛大なくしゃみが木霊した。


「む、むう。……誰か、俺の噂をしておるな。……! もしや、ヨメか? むふふ」

だったら嬉しいのう! 


ムズムズする鼻を擦りながら、噂の主は満面の笑みを浮かべ、止めていた足を一歩踏み出した。


嫁取り支度



空気まで凍てついた、とある冬の日。
しんしんと雪が降る山中に、かすかな音が転がる。

狗神、月影が雪道を進む音だ。

己の背丈の二倍以上大きな荷を背負い、腰の高さまで積もった雪を蹴散らしながら歩いている。
息は乱れ、雪に解けてしまいそうなほどに白く端整な顔には、疲れの色が浮く。

これで、かれこれ二十往復目なのだから無理もない。

「坊ちゃま、まだでございますか?」
ふと、雪を蹴散らす音に混ざって声が聞こえてきた。

月影の懐に潜り込んでいる下僕の鴉、空蝉の声だ。

「はぁ……はぁ……もう少し、のはずじゃ」
白い息を吐きながら答えると、空蝉は懐の中でもぞもぞ動きながら不満げにカァと一声鳴いた。

「はぁ……さようでございますか」

「む? なんだ、そのうんざりした声は。留守番しておれと言うたに、勝手についてきたのはぬしであろう。おまけに己ばかりぬくぬくと! それに重い! 歩きづらい! いい加減にいた……あ!」

文句の途中で、月影は声を上げた。真っ白な視界にぽっかりと開いた大きな穴……目指していた洞窟が見えたからだ。

月影は一つ息を吐くと、荷を背負い直し、重い足を大きく踏み出した。
もう少しだ。

洞窟に辿り着くと、月影は火打石と蝋燭を取り出し、蝋燭に火をつけた。

頼りない蝋燭の灯りを頼りに、奥へ奥へと進む。

しばらく行くと、藁で包まれた大きな荷が積み上げられた場所に辿り着いた。
月影はそこに背負ってきた荷……凍った湖から切り出してきた氷を、そっと下ろした。

「むう……これで、ひと夏持つかのう?」
「十分だと思います」

運び込んだ氷の山を見回しながら尋ねる月影に、空蝉が月影の胸元から顔を出して答える。

「真か? ヨメが……氷が死ぬほど好きで、毎日食いたいと言い出しても……」

「十分でございます」
空蝉がきっぱり答えると、月影は目を輝かせ、雪まみれの尻尾をぶんぶん振った。


ずっと、どうしようかと困っていた。

自分は父たちのように、天候を操る術が使えない。だから、冬の重苦しい雪雲を振り払い、温かな太陽の日差しを浴びせてやることも、夏の元気過ぎる太陽を雲で覆い、雨を降らせて涼ませてやることもできない。

寒さは、たくさん火を起こし、温かい衣を持ってきてやれば何とかなる。
だが、暑さばかりはどうしようもなくて……どうしたものかと長年考えあぐねていた。

けれど今年の夏、この洞窟を見つけた。

突然の夕立にやられ、雨宿りのために入ったのだが、雨がやむのを待つ間、暇つぶしに奥に入ってみたのだ。すると、奥は夏でも真冬のように寒いことに気が付いて――。

(良かった。これで夏、ヨメに暑い思いをさせずにすむぞ!)
氷の山をもう一度満足げに一瞥して、月影は踵を返した。


洞窟を出ると、雪はいっそう激しさを増し、猛吹雪になっていた。

視界はほとんど見えないし、頬に当たる雪風は刺すように痛い。
月影の着物の中に潜り込んでいる空蝉でさえ「この寒さは老骨には辛ろうございます、早う帰りましょう」と家路を急かしてくるほどだ。

だが、月影の足取りは軽やかだ。
未来の嫁が、美味しそうに氷を食む姿を想像するだけで、気持ちがどんどん浮き立っていく。

(あの子リスのような小さな口で、ちびちび食うのかのう? ……ムフフ。可愛い……お!)

整った顔をデレデレに崩しながらそんなことを考えていた月影だったが、ふとあるものを視界の端に認め、足を止めた。
そして再び踵を返すと、家とは正反対の方向に歩き始める。

「? 坊ちゃま、いかがなさいま…」

「おい! そのほう、よく聞け!」
猛風にかき消されないよう、声を張り上げながら、月影はあるものを指差した。


それは、一本の柿の木で――。


「よいか! 来年からは、今まで以上……ぬしができる限りの美味い実をつけるのだぞ!」 

「……坊ちゃま。このような遭難寸前の時に、木を相手に何をなさっておられるのです」

「む? こやつに檄を飛ばしておるのだ。何でも、草木にも心というものがあって、話しかけてやると美味い実をつけるそうなのでな。……おい! 俺のヨメのために美味い実をつけるのだぞ! 絶対だ! 分かったか!」

「坊ちゃま! それで十分でございます。早く帰りましょう。そうでないと私、凍死してしまいます!」









「ふぅ。危なく無理心中させられるところでございました」

空蝉があまりに切迫した声で訴えるものだから、しかたなく屋敷に戻った後。
火鉢の火で一息ついた空蝉が文句を言ってくるので、月影は鼻を鳴らした。 

「ふん! 無理心中とは大げさな。あれしきのことで情けない。というか、死ぬのが嫌なのだと……そのような弱音を吐くとは、『死神』も耄碌したものよ」

濡れた頭を手ぬぐいで拭きながら、ぞんざいに笑ってやると、膝の上に乗っていた空蝉が心外とばかりにぴょんぴょん跳ねた。

「死ぬのが嫌云々ではございません。猛吹雪の中、木に説教していて凍死しただなんて、たわけた理由で死にたくないと申しておるのです」

「だから! あの程度の吹雪で死ぬものか。それに、たわけたとは何事じゃ。あの木はこのあたりで一番美味い実をつける柿の木なのだぞ。あれくらい目をかけてやるのが当然じゃ」

そう言いながら、月影は近くの文机に置かれていた紙を手に取った。


輿入れまでに、自分がヨメのためにできることをまとめたものだ。


「氷は……今日で何とかなった。あとは……」 

ヨメの好物で、この山で一番美味い実をつける木や、山菜が採れる場所は探しておいた。
ヨメと二人で寝る布団は、晴れた日には必ず干しているし、山にはない、ヨメが欲しいものを買ってやる金もコツコツ貯金しているし、あと……。

「あと……空蝉、他に何かしておくことはないか?」

「坊ちゃま、まだ何かなさるおつもりですか」

「当たり前ぞ! 祝言までもう三月もないのだ。非番の日にできる限りのことをしておかぬと……ほら! 早く何か思い浮かべ」
「ヨメのためにしておくこと目録」と睨めっこしながら、月影が急かすと、空蝉は大きく首を捻った。

「そうは申されましても……思いつきませぬなぁ」

家は十を超える蔵や、舟を浮かべられるほど大きな池まである広大で立派な屋敷で、身の回りの世話をしてくれる使用人もたくさんいる。

欲しいものも、よっぽどのものではない限り、言えばすぐ手配してくれる。そんな環境で、月影個人がしておくことなんて……はっきり言ってない。

というか、そもそも――。

「失礼を承知で申し上げるなら、坊ちゃまの努力は徒労としか思えません」

氷も、この山で一番美味しい実も、使用人に言いつければすぐ用意してくれるのだから。
さらりとそんなことを言う空蝉に、月影は尻尾の毛を逆立てた。

「何を言う! 己の嫁のことなのに、人任せにしていかがするのじゃ! 俺自身で丹精込めて用意したもののほうが、ヨメもきっと嬉しいはずぞ」

少なくとも、自分はそうだ。

例えば、同じ料理でも、ヨメが使用人に言って作らせたものと、ヨメ自身が一生懸命作ってくれたものなら、後者のほうだ断然嬉しい。

――山神さま、菜の花のおひたし、好きだといいなぁ。
男の身でありながら、未来の夫のために一生懸命料理の勉強に励むヨメの姿を思い出すたびにそう思う。

「ヨメは、俺の立派な嫁になるために、懸命に精進しておるのだぞ。俺も頑張らずして何とする!」

「しかし坊ちゃま、さように何でもかんでも奥方様のことをご自分でなされていたら、奥方様の身の回りの世話を任されるだろう者たちの立つ瀬がありません。奥方様にしてみても、我が夫は、使用人に何一つ言うことを聞かせられぬ能なしと思われるのでは?」

「む、むう! ……そ、それは……」

「いえ、それだけならまだようございます。下手をしますと、坊ちゃまを堕落させる不徳の輩と、奥方様が責めを負うことになるやも」

「! それは困るっ」
ぎょっとして、思わず声を張り上げると、空蝉はくいっとくちばしを上に向けて、

「坊ちゃま、お忘れになってはなりません。坊ちゃまはご当主、白夜様のご子息……一族を統率する立場の者です。奥方様のお輿入れも、狗神と里がよしみを結ぶための策。ですから、夫婦仲云々の前にまず、一族の規律等に重きを置きませんと」

「む……むう」

「奥方様を大事にしたいと言うのなら、まずは家来たちに尊敬される立派な主になられることが先決かと存じます」

ぐうの音も出ない。
何から何まで、空蝉の言うとおりだ。

ヨメのことは目一杯可愛がってやりたいが、それで自分の立場や責務をないがしろにしてしまっては、周囲に迷惑をかけるだけでなく、ヨメにも迷惑をかけてしまう。

その挙げ句、ヨメが責めを負うことになったら……駄目だ! それだけは絶対駄目だ!

「分かったぞ、空蝉! 俺はまず、ヨメが皆に自慢できる立派な狗神になるぞ」

「……単純」

「む? 何か申したか」

「いえ。坊ちゃま、その粋でございます! では、もう一度兵法のお勉強から……」
これ以上、この糞寒い外に出られてたまるか。今日は部屋で大人しくしていろ! という、本心などおくびにも出さず、空蝉は月影に文机に向かうよう勧める。

そして、そんな空蝉の思惑など知る由もない月影は、やる気満々で文机に向かう。

「ヨメ! 待っておれよ」
俺はこの三か月でできる限りの、立派な狗神になるぞ! 

尻尾をぶんぶん振りながら、鼻息交じりに兵法書を読み始める。
そんな月影にやれやれと内心溜息を吐きながら、空蝉は冷え切ったお尻を火鉢の灯に向けた。







その後も、月影は空蝉の言葉のままに、冬の間コツコツと勉学に励み続けた。
それこそ、博識な文官たちから「こんな短期間で、よくぞここまでの知識を修められました」と褒められるほど。

これで、立派な夫に一歩前進したと鼻高々に喜んだのだが――。






「……大変なことになりましたなぁ」

桜の香りがかすかに漂う、静かな夜。
月影の背負った大きな風呂敷包みの上に留まった空蝉の声が、暗い夜道に転がる。

「まさか、白夜様にお屋敷を追い出されてしまいますとは」

「……うむ」

「今までどおり、神嫁の儀の慣例に従えなどと……白夜様も、それが無理なことは分かっておいででしょうに……」

「父上を悪く言うな」
小さく、だが鋭く、月影は空蝉の言葉を遮った。

「……俺が、悪いのだ。ヨメを娶っても大丈夫だと、父上が思うほど……一人前の狗神になれなかった俺が悪い」
感情を押し殺した声で、そう付け足す。

薬師も驚くほどに脆弱で、常に床に伏していた体を懸命に鍛え、動けなくなったら勉学に励んで……それこそ、屋敷の者たちが皆、ここまで元気になるなんてと驚愕するほど、精進してきた。

けれどただ一人、父、白夜だけは認めてくれなかった。

それどころか、お前みたいな役立たずの顔など見たくない。出て行け、と月影を屋敷から追い出されて――。

これしきのことで、へこたれるつもりは毛頭ない。だが、それでも……自分を拒絶し、遠ざかっていく白夜の背中を思い出すと、ジクジクと胸が痛む。

(あと、どれほど精進すれば……父上は昔のように、笑うてくださるかのう)
遠い思い出になりつつある、白夜の笑顔を思い出しながらそんなことを考えると、大きな耳がますます下がる。


しかし……。

――勝手にいたせ。


しかしだ。


「……『勝手にいたせ』」


白夜はそう言った。
顔も見たくない、出て行けと言った後に、確かに……言った。勝手にしろと。


それはつまり……勝手にヨメを娶ってもよいということで……!

と、思った瞬間。


「……坊ちゃま。あまりお気を落さず……坊ちゃま?」

「くくく……はははは!」
いやっほう! 突如奇声を上げたかと思うと、月影は木よりも高く飛び上がった。

「ぼ、坊ちゃま。全てなくされたこの状況で、何をそんなに喜んでおられるのです」

「ははは! これが喜ばずにいられるか! これで俺はヨメを娶れるし、ヨメに色々してやれるのだぞ?」
風呂敷包みにしがみつきながら尋ねてくる空蝉に、月影は宙返りしながらそう答えた。

「ぬしは言うたであろう。ヨメの世話は全部下の者に任せるのが、上の者の務めじゃと。だが、俺にはもう下の者などおらん! ゆえに、俺が全部できるのだ!」

夏の暑い日に冷たい氷を運んでやることも、好きな果物を採って来てやることも……!


「全部全部、俺がしてやる。そうして、ヨメの笑顔を独り占めにしてやるのだ! ははは」

ヨメの全部、俺のものじゃあ! 


高らかにそう宣言して、再度空高く舞い上がる。
それに合わせて、ポポポンポポポンとたんぽぽの咲く音もあちこちから聞こえてくる。

そんな月影に、空蝉はしばしポカーンとくちばしを開いていたが、ふと……思わずと言ったように笑い出した。


「いやはや。坊ちゃまは……奥方様のことを考えるだけで、どんな状況でも幸せになれるのですなぁ」


そうだ。ヨメのことを考えると、自分はどんな時でも幸せになれる。

――山神さまは、里のためにいっぱいお仕事されているんだよね。だったら、おいしいごはん作ってあげないとね。
ヨメは、月影のいい嫁になるために一生懸命花嫁修行に励んでいる。そんなヨメが可愛くてしかたないし、そんなヨメのために、自分も頑張らなければと強く思えるから。

けれど……。

「馬鹿を申せ。幸せになるのはこれからじゃ。ついに、ヨメが俺の嫁になるのだからな!」


――わたしと山神さま、いい家族になれるといいな。 

(うむ! なろうぞ、ヨメ。俺はぬしのために色々用意しておるゆえな。安心して嫁いでまいれ!)
遠い昔に見た、可愛いヨメの笑顔を思い返しながら、月影は心の中でそう呼びかけた。

 

   我が妻、我が妻、今いくつ。綺麗なべべを集めましょ

      我が妻、我が妻、今いくつ。寝床を花で飾りましょ

          我が妻、我が妻、はよおいで。可愛いそなたが待ち遠しい……

 

「はぁ……お幸せになるのは結構でございますが、坊ちゃま。お住まいはいかがなさいます? あと、日用品は? 衣類は?」
「! まずい、失念しておったっ。空蝉、どこぞに立派な家は転がっておらぬかっ?」 

 

                   ……やっぱり、もうちょっと待っててね



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